長野県 長野市 松代地区・・・
真田の里として有名な松代藩があったのが、この松代地区。
ここには今でも真田の当主がいて、真田邸などの建物が残されていたりする。
そんな松代地区には、広大な地下壕が存在しているというのです。
その名も・・・
松代大本営跡
地下壕なんて面白そう!!
そんな軽い気持ちで出かけた僕でしたが、この松代大本営跡で感じたのは、その地下壕の広大さだけはなく、その背景にある”資料すら残されていない歴史”なのでした。
松代大本営跡とは・・・
松代大本営跡。
それは、こんな長閑な地域に存在していました。
そもそも大本営とは何か。
それは、日清戦争から太平洋戦争までの時代における、日本軍の最高司令部の事。
もちろんそれは東京にありました。
なのに、ここにその大本営という名前の施設があるという。
日本軍の最高司令部があるのが、こんな長閑な地域??
そんなことあるのか。
だって、地図で見てもめっちゃ田舎だよ。
ほら、周りは山ばかり。
今でいう長野駅までもかなり離れてます。
そんな松代大本営跡というのは3つの巨大な地下壕の事をさします。
象山地下壕、舞鶴山地下壕、皆神地下壕。
そのうち、象山地下壕は、一般にも開放されているとのこと。
そう。
松代大本営跡というのは多くは地下壕なんです。
いや、地上にも建築物はあるんだけど。
今回向かうのは、象山地下壕なので、ここに絞って解説していきたい。
ここが象山地下壕の入口。
おお・・・本当に地下壕だな。
さて、入る前にここが作られた「目的」を勉強していきます。
出てきたあとに、作られる「過程」の話をしていきたいと思います。
松代大本営の目的
この象山地下壕を含め、松代大本営というものが作られた目的ですが・・・
ざっくりと1行で説明するのであれば・・・
政府重要機関や天皇陛下を東京から松代に移動させるため
という事になります。
ん?ん?どういう事?
東京からこんな田舎へなんで政府や天皇陛下がやってくるの??
という疑問が出てくるかと思うので、もう少しだけ解説すると・・・
太平洋戦争末期のこと。
次第に劣勢になっていく日本。
遠方での戦いばかりではなく、いよいよ本土爆撃や、本土決戦も想定される様になっていきます。
実は陸軍の考えには、東京は海からも近く防衛機能が低いという懸念があったとのだといいます。
このため1944年、長野県松代へ「皇居」「大本営」そのほかの政府機関を移転させるための工事が了承されたのです。
もちろん極秘計画です。
松代大本営は、この象山地下壕の他、舞鶴地下壕、皆神地下壕と合わせて全長10キロにも及ぶ広大な地下壕建設となります。
え??でもなんで松代???
海から遠い土地って他にもいくらでもあるじゃん!
って思うんだけど、色んな理由から松代が選ばれています。
- 本州の中で一番幅が広い位置の真ん中付近にある
- 岩盤が固いので、10キロ爆弾の攻撃にも耐えられる
- 山に囲まれているし、面積も広い。広いから飛行場もある
- 地域の人たちが純朴なため秘密が守られそう
- 信州っていう言葉は「神州」という言葉に通じるので品格がある
- 松代という地名には「松」という単語が入っており縁起が良い
- 労働力が豊かな土地である
などの理由が挙げられたということですが、
松代大本営に関する資料は残されておらず、どこまでが正確な情報かは不明。
あと、後半で書きますが、労働力が豊かというのはどうにもひっかかる部分もあります。
それと、秘密が守られたどうかはわかりませんが、あまりにも大規模な工事だったので、関係者も多く、地元では「東京から大本営が移って来るらしいぞ」的な噂は出まくってた様です。
さあ、そんな松代大本営の象山地下壕へと入っていきましょう。
地下壕ですからね、ちゃんとヘルメット着用です。
象山地下壕に入る
さてここからは実際に象山地下壕を歩いてみます。
ちょっと本編からは話題がそれますが・・・
象山って名前・・・もしかして・・・・
というのが頭をよぎりますが、それは次回更新の記事で。
ここに政府重要機関や天皇陛下が来る計画だったのか・・・と思うと不思議な感覚になります。
まあ、建築中に終戦を迎え、工事は8割ほどまで進んだところで終了したとのことですが。
外は真夏。
34度ほどの気温だったのが、どんどん涼しくなっていきます。
壁はゴリゴリしている岩盤。
確かに固そうな地層です。
やがて道が広くなりました。
何処まで続くんだろう。この地下壕。
そういえば3つの地下壕合わせて10キロもあるという話でした。
時々、コウモリも飛んでますが、まあ気にせず進んで行きます。
一般公開出来る道と、危なくて柵で進めなくなっている道とがあります。
柵の向こうは・・・・
ぐっと覗いてみると、何だかちょっと怖くなってきました。
そんな道が何か所も何か所もあります。
碁盤の目のような作りになっている様です。
赤い道が一般に公開されている部分。
現在地と書いてある部分まで進むと半袖じゃ寒いです。
ここまで歩いてきた頃、ふと頭によぎります。
こんな大規模な地下壕。
一体どうやって掘り進めたんだろう。
そして・・・・一体誰が、どのくらいの人数で??
「労働力が豊か」??
もちろん現代になってこうして一般人が入れる様になってから補強したりした部分もあるとは思うんですが、これほどの施設。しかも三つ。
当時の技術力で、しかも日本劣勢という環境の中、安全にこんなの作れるわけがない。
トロッコの跡でしょうか。
なにやら枕木の跡の様なものが残っています。
分かり道の部分はこういう感じ。
天井も高くて人はもちろん何か機材だとかも簡単に運べそうな天高です。
象山地下壕は平成になって、地元高校生の活動で一般公開へと動き出しました。
なので今では週末を中心にこうして訪れる人もいるため、非常用の電話なども設置されています。
公開部分の終着点までやってきました。
まだまだ先へと続き様ですが、空気をじっくりと感じ取り、元いた場所へと引き返しました。
松代大本営が作られていく過程で・・・・
さて、この松代大本営跡を訪れた話。
ここで終わりにしても良いのですが、途中で色々感じた部分もあり、書き残しておきたい事があります。
この記事を読んで、この象山地下壕へ行こうかなと思う方がいらっしゃったら、知っておいた方が良いかなと思ったので。
まず、途中でも書きましたが、ここの資料は残されていません。
(と、いう事になっています。日本の何処かにあるのかもしれませんが)
その前提でのお話になってしまいますが・・・
地下壕の壁にあった、この跡を見てください。
これ、真ん中らへんに棒状のくぼみがあるのが見えますでしょうか。
なんだかわかります?
爆薬を設置していた跡だということです。
そう。爆薬を発破させてトンネルを掘っていくんですね。
すごい危険な作業だったろうなあ・・・・
と思うのと共に考えるのは、誰が?どのくらいに人数で?
という事。
実はこの松代大本営。
工事に動員された人数は全部で1万人程に及んだとされています。
割合としては日本人3000人、朝鮮人7000人。
ん?待て待て。
ここは労働力が豊富で選ばれたんじゃなかったのか?
その勤務時間は地下壕の掘削という過酷な仕事内容なうえに1日12時間だったといいます。
しかも誰でも想像すると思うんだけど・・・
きっと強制的に動員されているんだよね??
簡単には断れない状況なんだよね??
朝鮮の方々なんかは特にそうだったんじゃなかろうか。
そして、やはり現在まで伝わってきてる話には、工事中、相当な数の方が地下壕で亡くなっている・・・・それこそ・・・・・爆薬・・・・・
あと、避けては通れない話は他にもあって。
松代には工事の労働者だけではなく、朝鮮から20歳前後の女性も連れてこられていたというのです。
わかりますよね。
慰安婦として呼ばれていたんです。
終戦後、その方たちの行方はわかっていませんが、富山港から朝鮮に戻ったとも言われています。
戦争というのはそういうものです。
一般の市民にとっては、何一つ、良い事など起きやしないんです。
この、松代大本営跡というのは、その事を実感させてくれる場所です。
正直なところ、長野県にそういう施設があるという事も知りませんでした。
何も知らず訪れた象山地下壕でしたが、戦争の痛ましさや恐ろしさを、嫌でも想像してしまう場所でした。
僕らは今、戦争の無い日本に生きてます。
ただ、ほんの少し昔はとても辛い戦争の時代があったんですよね。
それを思い知らされる場所です。
だからこそ、これから先の時代、平和であることを最も大切なこととして、生きていかねばならないな・・・・
そういう思いを抱く象山地下壕でした。
見学可能時間:09:00-15:30
毎週火曜日は点検日
(近隣駐車場は小さいですし、道も狭いのでご注意ください)
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↓次回へ続く