古墳時代・・・。
ざっくり言うと、それは西暦350年頃~700年代末期頃の事を指す。
約400年も続いた「古墳を作っていた時代」だ。
一口に古墳時代といってもそれだけ長い期間があるわけ。
今が2021年だから400年前というと1621年。
大きな出来事で言うと豊臣VS徳川の大阪夏の陣とかやっている頃。
そう考えると古墳時代がどれだけ長かったのかよく分かる。
その古墳時代の初期。3世紀後半に作られたと思われる古墳が松本にある。
前も後ろも四角い形の古墳だ。
みんなが教科書で習った鍵型のものではない。
もっと昔の古墳だ。
もちろん古墳は一般人のお墓ではない。
相当な地位にある人が眠りにつく場所だ。
なので、一般的には大きな古墳の近くには、その子孫や関係者の古墳が点在する事が多い。
しかし不思議な事に、弘法山古墳の周りにはこれといった古墳は殆ど発見されていないという。
では一体、誰の古墳だったのか。
これ程の規模の古墳なのに子孫や関係者のお墓が無いというのは一体どういう事なのか。
それは謎に包まれたまま。
しかしそこから100年ほど先の時代。
西暦400年代の末期。
弘法山古墳から北へ約50キロほど離れた場所に、大きな古墳が作られていた。
時代が移り変わり、その形は前方後円墳になった。
つまり教科書で見た、あの鍵型。
その名は森将軍古墳。
え?古墳時代なのに将軍??
疑問だらけが残る森将軍古墳。一体どんな場所なのか。行ってきた。
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森将軍古墳@千曲市
やってきました森将軍古墳!!!
歴史フィールドワークです!
場所は千曲市。
その名の通り、千曲川が流れる土地。
善光寺のある長野市と、上田城のある上田市の間くらいな位置関係です。
駐車場がしっかり整備されているので、そこへ車を止めて、辺りを見回すと・・・
おお!!?
あ、あれが森将軍古墳かな?!!
けっこう上の方にあるな!!( ゚Д゚)ウッソー
駐車場から徒歩2分くらいなイメージで来たからショック・・・。
全身麻酔手術から2ヶ月も経ってないこの身体であそこまで登るのか・・・。
何やら送迎バスもあった様だけど気づかずに歩いて進みます。
ちなみに古墳の資料館もしっかりしたものがありましたよ。
古墳への道のり
古墳へは登り道な様だけど、その手前には「科野のムラ」なる場所がある。
シナノ・・・?
信濃と書かないのがまた謎だ。
信濃の国が生まれるよりも前に科野なる地名があったという説がある様だけれど・・。
整備された道を歩いて登ってく。
ぐう・・・やっぱり今の自分には堪える・・・。
体力的なリハビリが必要だ。
こんな急斜面を上り下りして古墳作ったのか・・・。
近道発見!!
(急な階段)
だけれど近いと言われると行っちゃうよね!
キッツイ(;´・ω・)
これは健康体じゃないと登れないわ・・・。
だけれど頑張る。
手術後の体力低下は否めないけど・・・
「♪あなたが思うより健康です!!♪」
15分か20分か。
登っていくと開けてきました。
お・・・。
なにか見えてきたぞ。
あれが森将軍古墳じゃないのか?!
よぉし!頑張れ!!
11年かけて復元された森将軍古墳!
うっわ!!
なんだこの規模は!!
凄くね?!
なんでも11年かけて当時の古墳を復元したのだとか!
これ全部、千曲川の砂利だってよ!
現代の技術をもってしても11年かかってるし!!(;・∀・)
どんだけの規模だ!!
いやこれ絶対さ、この上にラスボスいるでしょ!
今のうちに回復アイテムでHPとMP全快にしといた方が良いでしょ!
圧倒的迫力!
登り切った先は・・・
お、ラスボスはもう少し先だった??
あの上か?
それにしても何という大きさ。
ここは前方後円墳の「前方」部分。
ここだけで長さ40メートル、幅30メートルという規模。
全体像としては長さ100メートルという巨大な古墳だ。
復元された古墳なので、装飾の埴輪(はにわ)も再現品。
でもよく考えて・・・
歴史や地理の授業で習った前方後円墳ってさ、森みたいなイメージ無い?
そんで周りはお堀で囲まれてる・・・みたいな。
有名なのは仁徳天皇の巨大な巨大な古墳。
古墳全体が森になっている航空写真をよく見るよね。
実はあれは長い時代が経過したから森になっているのであって、最初は違うんだって。
その最初の姿が見れるのが、この森将軍古墳なのだ。
※そんな理由もあり、今や教科書にも森将軍古墳が載っているそうです。
周辺の埴輪(はにわ)は、まだこの時代には人型や馬型のものは存在しなかった様。
あれはもう少し先の時代なのですね。
さて前方後円墳の後円の部分に行ってみます。
うっわーー!!
凄い眺めだ!!
千曲市の全景が見える上に・・・
遠くには雪山!あれは白馬あたりかな??
写真中央を横切る建造物は北陸新幹線!
新幹線かがやきが走っていくのが見えた!
この辺は今でも交通の要所なのですね。
長野市の方向を見ると畑も沢山!!
太い道は上信越自動車道!
右奥の栄えてる街が長野市です。
これ程の眺めの良い場所に埋葬されたのは一体誰だったのか・・・。
森将軍古墳という名前が付いてはいますが、実は森という将軍がいたわけではありません。
江戸時代などに、偉い人のことをざっくりと「将軍」と呼んでいた事があります。
今でいう「いよ!大統領!」みたいなものか。
いや、ていうかこの例えも古いな。
ここら辺は森という地名でした。
そして古墳といえば偉い人のお墓。
なので「森という地区にいた偉い人のお墓」=「森将軍古墳」となったのです。
何せこの古墳が作られたのは西暦400年代末期。
今となっては一体誰のお墓だったのか、明確に示すものはありません。
もちろん「説」としてはあるのだそうですが・・・。
ただこの時代の出土品は武器などは多く含まれていない事から、武力で支配していた訳ではなく、もっと昔なので・・・呪術師などではなかったか。という話もあるのだそう。
残念ながら、棺は何処かの時代で盗掘に遭ってしまい、これ以上調べる事は難しい状況なのだとか。
一体この時代に誰がこの地域を納め、そしてどんな出来事があったのでしょうね。
そして彼らの時代があるから、今の僕らがいるのだなあと感じたのでした。
周りには他にも古墳が存在する
さて、冒頭で書いた「大きな古墳の周りには子孫や関係者の古墳も存在する」という話。
弘法山古墳にはありませんでしたが、この森将軍古墳にはいくつもの古墳が残されてます。
奥に見えるのが森将軍古墳。
その手前にいくつかこんもりと盛り上がっているのがわかります?
この盛り上がっているのが、それぞれ古墳だそう。
今は保存のために土を被せてあるけれど、ここにも古墳があって、地面の中にあるんだって。
だからこの写真には3つの古墳と、森将軍古墳が写っている状態です。
子孫なのか、関係者の高官なのか。
一般人ではない、位の高い人のお墓のはずです。
それと、少し離れた場所に第2号古墳というのがありました。
こちらは少し大きめです。
2人の方が眠られていたそうです。
森将軍古墳と周辺の古墳は、数十年単位の時代のズレがある様なので、やはり子孫とかなんですかねえ。
ちなみにこの森将軍古墳の他にも千曲市や長野市には将軍古墳がいくつか存在します。
ところが不思議な事に、古墳時代に後期になると、伊那谷の方で作られている形跡があるのです。
この千曲市周辺が栄えた後の時代、伊那谷が栄えたという事なのでしょうか。
一体何故に?
その理由は永遠に歴史の彼方です。
長々と書いてきましたが、書いた知識の90%は森将軍古墳のガイドさんに解説して頂いたものです。残り10%は調べました。
ガイドさん、丁寧に沢山教えて頂き、ありがとうございました!
古墳、めっちゃ興味増えました!!
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千曲市の名産といえば・・・あんず
さて、現代の話に戻って、千曲市の名産を頂いて帰ろうと思います。
それは・・・あんず。
古墳から少し車で走らせると「あんずの里」なんて場所もあるくらいです。
そこにある横島物産さんへ到着!
強烈な色合い!
ここで頂くのは・・・
あんずソフトクリーム!!!(*'▽')
シャリシャリとした食感と、あんずの爽やかな味が最高!!
今やあんずの名産地となった千曲市!
歴史を受け継がれ受け継がれ、そしてまた未来へと続いていくんですね!
以上、ちょっと真面目回なお出掛けレポートでした!
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